Loading...

藤沢武夫、本田宗一郎を支えた名参謀

トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎について触れたので、本田技研工業の創業者にも触れてみたいと思います。ただ、本田宗一郎はあまりにも有名で関連書籍も無数にあるので、今回は「藤沢武夫」というもう一人の超重要人物にスポットを当てます。藤沢武夫なくして本田宗一郎はあり得なく、世界的企業となった今日のホンダもまたあり得なかった。それほどの大人物です。

あまりにも有名な本田宗一郎

本田技研工業の創業者「本田宗一郎」(1906年~1991年)。若い人で経済に詳しくなかったとしても、名前は聞いたことがあるでしょう。父の成功を背景にトヨタ自動車を創業した豊田喜一郎とは異なり、本田宗一郎はまさに裸一貫から起業し、「世界のホンダ」にまで成長させた伝説的な人物です。

しかし、彼を支えた名参謀・藤沢武夫がいなかったら、本田技研工業は小さな町工場のままで終わっていたことは、当の本田宗一郎本人が認めています。それほどの信頼を寄せていた藤沢武夫、一体どんな人物だったのでしょうか。

ホンダ倒産の危機を救った藤沢武夫

藤沢武夫(1910年~1988年)は、本田宗一郎の圧倒的な知名度に隠れて、あまり知られていません。それもそのはず、藤沢は常に宗一郎を引き立て、裏から会社を支えたからです。それでも一部のビジネスマンからは、伝説的な人物として尊敬されています。また、海外のビジネススクールで教材として取り上げられることもあるほどです。
画像出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4167130025

藤沢と宗一郎が出会ったとき、創業したばかりの本田技研工業は、倒産するかもしれない代金未収問題を抱えていました。それを救ったのが藤沢でした。以下は、本田宗一郎による回想です。

私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤沢専務”といわれるが、その藤沢武夫君と私との出会いは、ドリーム号(同社初の二輪車)の完成した昭和24年(1949)8月であった。

当時モーターバイクが好評で、作るそばからどんどん売れる。自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じていた私はもうけの方をつい二の次にしていた。そしていつのまにか月産千台もの企業に拡大してしまっていたが、そうなると売り先は小さな自転車屋とか終戦の混乱に乗じてかねもうけをたくらむヤミ屋、復員した連中といったきわめて不安定なおとくいさんである。(中略) とにかくきのうは店を開いていたと思って売り掛け金を回収に行くと、次の日には店は閉まっていて、本人はどこへ夜逃げしたのか、だれも知らないといったぐあい、品物は出ても代金がほとんどはいらない。 これではこっちが破産してしまう。弱ったなと頭をかかえているところへ(中略)竹島弘君(通産省技官)が藤沢君を紹介してくれた。(中略)

(彼は)私がつぎつぎ発明をし新製品を出すには出すが、かねが取れないで困っていることをよく知っていた。そこで「おかねのことなら藤沢君にまかせておけばなんとかするだろう。そうすればお前の苦労は減って好きな技術の道を歩けるようになろう」というので二人を会わせてくれたわけである。 (本田宗一郎著『私の履歴書』)

宗一郎は藤沢に全幅の信頼を置き、実印と会社の決定権を託しました。そして自分は、技術者として大好きな機械いじりに集中したのです。この役割分担は、その後もずっと続きます。

卸専門の販売システム、修理のためのサービス・ファクトリー工場、中古車販売会社を全国展開して小売店をサポートする体制など、今では当たり前のシステムは藤沢が広げていったものです。

また、ホンダは急成長とともに、幾多の試練を迎えることになりますが、マン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言して、従業員の士気高揚を図りました。この劇場型経営の脚本を書いていたのも藤沢です。

名参謀がいるからこそ、経営者が輝く。藤沢と宗一郎の関係は経営の理想として、多くのことを教えてくれます。